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− 110 −第2章 村落概況り、松の巨木が並木を作り、勝連方面からも見えたという。集落の南にはウンサクモーと呼ばれている広場があり、五月ウマチーに拝んでいる仲宗根ウガンがあり、地頭代火之神も祀られている。また、その一帯は内グスクとも呼ばれ、『琉球国由来記』に「内城アマミヤ嶽」と記載され、グスク時代の遺物が散布している。仲宗根地域には、さらに古い時期から人々が暮らし、その痕跡が縄文時代後期からグスク時代にかけての複合的な遺跡として、仲宗根貝塚(一九六六・七九(昭和四一・五四)年度調査:抜歯した人骨下顎が出土)、馬上原遺跡(一九八九〜九〇(平成元〜二)年度調査:住居跡が出土)や仲宗根遺跡(二〇〇八・一〇(平成二〇・二二)年度調査)が発見された。戦後、室川屋取(室川原、照屋又原一帯)が室川区の一部として独立した。⑪ 上地廣山 實現況上地は、戦前まで市の西部に位置した集落で、現在、嘉手納基地に接取された土地以外はほとんど中の町自治会に属する。東は字胡屋、西は嘉手納町、南西は字諸見里、北は字森根・嘉良川(基地内の字)と接している。戦後、字が軍用地に接収され、越来国民学校一帯に米軍刑務所(スターケージ)が設置された。しかし、いち早く郷友会を組織して戦後復興に邁進し、一九五三(昭和二八)年に軍用地の解放とともに、新たな街づくりが展開される中で公募により「中の町」という街名が誕生し、今日に至っている。一九五九(昭和三四)年に琉米親善センターが建設され市民に広く利用された。一九八三(昭和五八)年にその跡地に沖縄市文化センター(市立図書館、市立郷土博物館、市立芸能館が開館)が建設された。県内でも名を馳せた中の町飲食店街がありその一角(胡屋十字路)に音楽の殿堂コザミュージックタウン音市場が立地している。一九九四(平成六)年に中の町公民館近くに上地郷友会集会所が建設され、郷友会の心のよりどころになっている。発祥上地は、方言でウィーチと呼ばれている。『絵図郷村帳』(一六四九年)、『琉球国高究帳』(一七世紀中葉)に上地の名が見られる。越来間切仲宗根村の照屋又原から移住した人々が創建したと伝えられ、一九九七(平成九)年にこの地(室川一丁目一七〇番地)に「あがりゆー拝所跡」の石碑を建立し、先人を称えている。一九〇二(明治三五)年には越来の地から越来尋常高等小学校(現市文化センター一帯)が移転開校し、戦前まで上地学校として親しまれてきた。また、竹が豊富にありバーキ作りが副業として発展し、「イーチアラバーキ」といわれるまでに名を馳せた。一九三〇(昭和五)年に副業組合(組合員六九人)が設立され、講習会等を開催し新たな竹製品も作られた。字は一三の小字からなり、東アガリ原バルと上イー地チ原バル・西イリ原バル・唐カラ川カー原バル(一部はセンター区に組み込まれる)の一部以外(県道八五号線以北)は米軍嘉手納基地として接収されている。明治初期のころ開拓された唐カラ田タヌヌ上イー、呉グ富フ士ジ、桑クワ江エバ畑タキは屋取集落を形成していた。中の町小学校から県道二〇号線(空港通り)へ向かう途中に上地のアシビナーがあり、郷友会により旧暦の七月一六日に旗スガシー、九月一八日にウスデークが奉納されている。また、上地の各地にあった拝所「にしぬびじゅる」「うがん」「まちしぢー」「めーぬびじゅる」「ひぬかん」「あがりゆーうたき」「あがりゆーひぬかん」がアシビナーに合祀され、郷友会の有志で区民の繁栄と健康を願って、旧暦の一月二日のハチウビー(年始まりの祈願)の拝みが昔から今も脈々と受け継がれている。

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