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− 111 −第1節 旧集落⑫ 諸見里廣山 實現況諸見里は、市の南西部に位置し、東側を国道三三〇号が走り、園田、久保田、西は山内、南は山里、北東は中の町の各自治会、北は県道八五号線で嘉手納基地に接している。古くは山内とともにヤマムムの産地として県内でも名を馳せていた。現在自治会内は住宅街となり、国道沿いには商店や銀行、レストラン、居酒屋等がある。一九七三(昭和四八)年に復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)の開催に伴いヤマモモの木が自生していた字の北側一帯が市コザ運動公園となり、野球場、陸上競技場等のスポーツ施設が設置され、スポーツコンベンションシティーの一翼を担っている。また、夏の風物詩である「全島エイサーまつり」「ピースフルロックフェスティバル」の会場として県内外から多くの観光客が足を運ぶ。そのほか、市立諸見里保育所や市老人福祉センター(寿楽園)、諸見民芸館、沖縄青年会議所、ゴルフレンジ等がある。面積は七三七〇〇〇平方メートル。二〇一四(平成二六)年三月の人口四七二九人、二〇八四世帯。発祥諸見里は、方言では「ムルンザトゥ」と呼ばれている。また、戦前から山内とともにヤマチムルンザトゥ(山内・諸見里)と併称されて呼ばれていた。集落の元祖は胡屋から移ってきた「セークヌ屋」から始まったといわれている。『絵図郷村帳』(一六四九年)、『琉球国高究帳』(一七世紀中葉)には、中城間切諸見里村として登場する。越来間切から美里間切が分離した一六六六年に中城間切から越来間切に編入されたと思われ、『琉球国由来記』(一七一三年)に越来間切諸見里村として見られ、現在に至っている。屋取集落として呉グ富フ士ジ、赤アカ平ヒラ、焼ヤキマージがあった。一九〇三(明治三六)年時点では一三の小字があったが、昭和前期に赤平屋取(比ヒ屋ヤ名ナ原バル付近)が分離独立し山里となったため一二小字となった。なお、県道八五号線以北は嘉手納基地として接収された。旧暦の七月一三日から一五日は青年によるエイサーが集落内を道ジュネーする。さらに、一六日には五穀豊穣、集落の繁栄と無病息災を祈願する旗スガシー行事(市指定民俗文化財)があり、多くの区民が参加し、旗頭を先頭に集落内を道ジュネーし、最後に自治会の広場でエイサーや獅子舞などが披露される。安政年間(一八五四〜一八六〇年)に製作されたといわれる村旗も民俗文化財(市立郷土博物館蔵:一九九〇(平成二)年、諸見里郷友会寄贈)として市指定されている。⑬ 山内廣山 實現況山内は、市の南西部に位置し、東は沖縄自動車道・沖縄環状線を跨いで諸見里、西は市道山内小学校西側線(ももやま通り)で南桃原、南は県道二四号線を挟んで山里、南桃原の各自治会と、北は県道二三号線(国体道路)を挟んで嘉手納基地に接する。戦前からヤマモモの産地として名をはせたが、一九七六(昭和五一)年九月から始まった土地区画整理事業によりその姿を消した。尾根と谷の起伏にとんだ丘陵地が区画整理で開発され、南東から北西に走るももやま通りを境に西側が南桃原区に割譲された。区内には市立の山内幼稚園、山内小学校、山内中学校、山内保育所、沖縄少年院や沖縄女子学園、沖縄市消防署山内出張所、市営山内団地や認可保育園があり、病院や書店、コンビニ等がある。また、二〇一四(平成二六)年四月に桃山公園内体験学習施設「やまっち」が開所した。沖縄自動車道

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