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− 112 −第2章 村落概況の南インターや北谷アメリカンビレッジが近くに控え、住みよい閑静な住宅街となっている。老人クラブ(山内老友会)は県下でも三番目(一九六三(昭和三八)年)に結成され、現在も活発に活動している。面積は七九七〇〇〇平方メートル。二〇一四(平成二六)年三月の人口三九九八人、一四八三世帯。発祥山内は、方言でヤマチという。一九〇三(明治三六)年には一五の小字があったが、昭和前期に山里が分離独立し、現在は一一の小字からなる。屋取集落として樋ヒジ川ャー原バル(嘉手納基地内)・桃トウ原バル(南桃原区)・赤アカ平ヒラー(山里区)があった。戦後、県道二三号線以北が嘉手納基地として接収されている。元来北谷間切に属していて、北谷関係『おもろさうし』に「やまち」と見え、『絵図郷村帳』(一六四九年)や『琉球国高究帳』(一七世紀中葉)にも北谷間切山内村と見える。『琉球国由来記』(一七一三年)に越来間切山内村として記載され、北谷間切から越来間切に一六六〇〜七〇年ごろ移動したと思われる。始祖は、尚円王ゆかりの楊氏山内昌信と伝えられる。昌信は尚円と北谷金万の祝女真加戸金との間に生まれた子として言い伝えられ、長じて三司官に任じられ、山内の地を拝領して永住したという。また、ヤマモモについては口碑として、昌信が明留学の帰りに苗を持ち帰り山内前ヌ原に移植してそれが広がったと言われている。山内では昌信の生誕地にお宮を建立し、旧暦八月一〇日にお宮の前のアシビナー(現公民館前の広場)で女性だけでウスデークを舞い、昌信を崇め、五穀豊穣を願っている。また、昌信の子孫で越来番所の文子(ティクグ:書記)であった山内村の青年冨里と越来村の見目麗しき娘真鶴とのロマンスを謳った越来節の舞台の地として、お宮の一角に歌碑(下句)が建立されている(上句は越来にある)。⑭ 山里廣山 實現況山里は、市の南西部に位置し、東は北中城村や久保田自治会、西は山内、南桃原、北は諸見里の各自治会、南は米軍キャンプ瑞慶覧(ロウワー・プラザ)を挟んで北中城村に接する。自治会内を沖縄自動車道及び県道八五号線(沖縄環状線)や県道二四号線が走る。国道三三〇号と県道二四号線が合流する山里交差点を中心に本市の南の玄関口として栄えてきたが、最近通りには空き店舗が目立つ。現在、まちなか居住を促進するため山里第一地区市街地再開発事業が実施されている。沖縄警察署や県営山里高層住宅、県企業局山里調整池・コザ球陽寺、タクシー会社、認可保育園などがある。面積は三七九〇〇〇平方メートル。二〇一四(平成二六)年三月の人口二五〇一人、一一〇四世帯。発祥山里は、昭和前期に字山内と諸見里にまたがって位置した赤アカ平ヒラ屋取集落が分離独立してできた行政字で、山内の山と諸見里の里を取って「山里」として命名された。字としては、山内から新アラ川カー原バル・和ワ添シー原バル・長ナガ田タ原バル・桃トウ原バル、諸見里から比ヒ屋ヤ名ナ原バルが分離した五つの小字で構成されている。なお、一九五六(昭和三一)年、桃原地域が行政区(現南桃原)として独立した。山里交差点付近から山内入口バス停一帯は、戦前は山内ヌ前、ムルンザトアガリなどと呼ばれていたが、戦後この地域に関係のない島袋という地名を冠せられ、島袋三叉路と呼ばれていた。バス停や映画館も島袋の名が冠せられていたが、現在は三叉路やバス停は山里と改められている。県企業局山里調整池のある場所は、戦前は小高い丘で和添山(ワーシー、ワラシーともいう)と呼ばれていて、本土へ船で渡航する人たちを見送る

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