シーサーネット樣:機能確認用サンプルブック(検索ハイライト/ルビ部分検索不能)
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− 113 −第1節 旧集落場所として円錐の形から「山内富士」とも呼ばれ親しまれていた。この近くに琉球石灰岩の岩山があり、石灰岩で造られた火返しのシーサーが村を守るため鎮座している。また、山里交差点の近くには普天間神宮へ遥拝するヒャーナー(ビジュル)がある。戦後、嘉手納基地に接取された字山内の屋取集落樋川原(ヒージャーバル。仲原〈ナカバル〉とも呼ばれた)の人たちが多く移り住んだ。青年会の演じるエイサーは一九四八(昭和二三)年に樋川原出身の方々の指導を受けてはじまったといわれ、男性だけで演じ、ダイナミックで、全島エイサーまつりの常連である。2 旧美里村① 池原(平田原)泉川 良彦現況池原は、市域の北東側の端に位置し、北部はうるま市栄野比に接している。集落は近世から続く古層の村で、樹齢を重ねたガジュマル等の古木が多く見られる。農地の多くを嘉手納弾薬庫地区としてアメリカ軍に接収されたため兼業農家が多い。池原の民俗文化財として「木火土金水碑」がある。これは、池原村と那覇の奥武山で鳩目銭の鋳造が許されたと伝えている。この伝承を裏付ける石碑として「木火土金水碑」あるいは「池原の碑」(一六五七年)と呼ばれている。同碑の下方に池原で最初に利用されたといわれている湧泉「ウブガー」がある。また、池原では十五夜行事としてエイサー・ウスデーク・獅子舞があり市文化財となっている。面積は五〇九〇〇〇平方メートル。面積は二七九六〇〇〇平方メートル。二〇一四(平成二六)年四月の人口は二、六四三人。一、〇一〇世帯。発祥池原は方言でイチバルという。池原、東佐久原、赤間地原、泉ン当原、御宿原、後原、赤小堀原、久茂地原、池ン当原、大名原、堀根原、轟原、義座原、大川原、西ン地原、勢頭原、石城原、奈呂加原、上田原、仕明座原の小字からなる。『おもろさうし』に「いけはる村」と見え、『絵図郷村帳』では「池原村」と宛てている。越来間切時代、池原村は、登川の南のスクブ御嶽の東北一帯の平地が集落発祥の地とされている。東北方の湿地を、風水師赤峯親方の指導で二〇〇〇坪の池にし、この池を中心に耕地を開き、やがて住民は耕地の周辺に住んだが、のち北に移動して現在地に集落を形成したという伝承がある。② 登川(赤道原・平田原・後原・前原・ミクヂ原)泉川 良彦現況登川は、市域の北東側に位置し、東側をうるま市に接する。集落は国道から東に形成されている。市指定文化財(記念物)として「分村碑(登川碑)」があり、民俗文化財として「スクブウタキ」がある。面積は二○七九〇〇〇平方メートル。二〇一四(平成二六)年四月の人口は五、三九七人。二、一四四世帯。

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