シーサーネット樣:機能確認用サンプルブック(検索ハイライト/ルビ部分検索不能)
2/20

− 102 −第2章 村落概況第1節 旧集落1 旧越来村① 御殿敷宮里 実雄現況市の北西部に位置し、西側で嘉手納町、北〜東側で倉敷、南側で大工廻と接する。県道七四号線の北側で、沖縄戦後に全域が米軍基地内となり、居住者はいない。御殿敷原の他、四つの小字がある。集落は米軍基地となっているため、住民は市内外に居住し敬老会、親睦会を行い、絆をつないでいる。現在、行政区(自治会)としてはない。発祥ウドゥンシチと言う。御殿敷は旧越ごえ来く間ま切ぎりに属し、越来村、コザ村、コザ市を経て、現在に至る。元々、首里の御ウド殿ゥン(王おう子じ・按あ司じ家け)の土地(敷地)であったので、御殿敷と呼ばれたようだ。尚家が廃藩置県後に職を失った士族を救済するため入植後、三〇年間経てば個人有地として譲渡するとの約束をしたため、一八九四(明治二七)年に開墾が始まったという。御殿敷は共同作業が盛んであり、県より農業模範部落として指定されていた。県の産業奨励種目であるお茶の御殿敷茶業組合が一九三三(昭和八年)に設立され、続いて内うち喜き納な茶業組合、西里茶業組合も設立されて越来村は茶の名産地として知られるようになった。一九一三(大正二)年に尚家は約束を反ほ故ごにし、御殿敷を製糖会社に売却したため、開墾者達は製糖会社と契約を締結し小作人となり、やがて小作争議にまで発展した。大工廻より、クラシチ、ウチジナー、クボー、御殿敷の屋ヤー取ドゥイが一つになり一九一七(大正六)年に地籍を分けることなく独立した。また、九人開地も御殿敷に編入された。地籍を分けたのは、戦後のことであろう。後に倉敷、久保原、内喜名が倉敷として独立した。蔡温の時代、御殿敷と大工廻の間に造られた七つの堰せき(ナナイーと言う)のうち、ハンタ小堰(ガートゥイグムイであろうか)、ムンドーは御殿敷にあった。沖縄戦の後は米軍基地となり、御殿敷に住民はいない。脚注*沖縄風土記刊行会『沖縄風土記全集』第三巻コザ市編、一九六八年一月。一〇一頁*角川書店『角川日本地名大辞典』四七 沖縄県、一九八六年七月。二四二、三五〇、二四二、三五〇、八〇〇、八〇二、一〇五四頁)*東恩納寛惇『南島風土記』一九六四年一二月再版。三六〇、三六一頁*琉球新報社「忘れられた部落(上) 越来村御殿敷の今昔 上江洲由祥」『琉球新報』(琉球新報社 一九五四(昭和二九)年二月一八日)*琉球新報社「越来村の茶業 奨励に無駄は無かった 上江洲由祥」『琉球新報』(琉球新報社 一九五六(昭和三一)年三月二七日)*沖縄タイムス社「唐獅子 沖縄の土地の香り 新屋敷 幸繁」『沖縄タイムス』(沖縄タイムス社 一九七一(昭和四六)年一二月二日)*崎原恒新『私たちの沖縄市─みに事典─』一九九一年八月一日。二三頁*沖縄市役所「日本人 大字別世帯・人口集計」二〇一四年七月三一日現在*沖縄市役所「行政区別人口統計表」二〇一四年七月三一日*大工廻郷友会『大工廻誌〜基地に消えた古里〜』二〇〇九年九月。四五頁

元のページ  ../index.html#2

このブックを見る