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− 103 −第1節 旧集落② 大工廻宮里 実雄現況市の北西側に位置し、西側で嘉手納町、北側で御殿敷、東側で知花、白川、南側で宇久田や森根に接する。位置的には県道七四号線(沖縄嘉手納線)の南側の米軍基地内にあたる(戦前の県道からは北側)。沖縄戦後、全域が米軍基地に接収され、居住者はいない。中央部は比謝川が東から西に、与那原川が北から南に向かって流れる。大工廻原の他、九つの小字がある。大工廻、宇久田の人たちは働き者と言われ、良い意味で「火はらたき」と言われていた(『沖縄風土記全集』コザ市編)。「勤倹貯蓄を宗とし、労力を厭わず汲々として農事に精励する」と明治期の新聞に書かれる。一九〇四(明治三七)年、宇久田の民家のアシャギ(離れ)に越来尋常小学校の仮教場が開設された。一九一九(大正八)年、大工廻に移り、校舎も増築されて宇久田分教場と称した。一九二四(大正三年)には宇久田尋常高等小学校となった。通学区域は、大工廻、宇久田を主としながら、後に独立した嘉良川も校区となった。一九四五(昭和二〇年)年沖縄戦により学校は消滅した。現在、行政区(自治会)はない。発祥ダクジャク、ダクザク、ジャクジャク、と呼ばれる。大工廻は旧越来間切に属し、越来村、コザ村、コザ市を経て、現在に至る。県道七四号線の北側に位置する。北西側に道一つを隔てて接する宇久田と合わせ、ウクダ・ダクザクと併称される。大工廻一帯は山林深く、中頭の山ヤン原バルとも言われた。集落の創始者は南風原(越来)より移住し、平松尾、富田、新垣、川端の各門中の先祖にあたると言う。大工廻の「大工」という文字は、蔡温時代の時、御殿敷との間にシラカーイー等の七つの堰せき(ナナイーと言う。)を築いた治水工事があってその工事との関係ではないか、また一帯はサク(迫)と呼ばれる窪地が多いことが地名の由来ではないか、とも言われている。大工廻には、ウラウシノ嶽、中森、コバウノ嶽がある。他には宇久田村(河陽村とも)と共に祀る大工廻ノロ火之神、前之川、大工廻神アシアゲがある。これらは大工廻ノロが祭祀を司った。大工廻村の勢せ頭どう親部という人物が琉球王国で炭を初めて焼き(『琉球国由来記』)、宇久田村と共に毎年王府へ炭を献上していた、という。屋取にはヤトコロー(八所)、シルバー、白河(白川)、森根、御殿敷、倉敷、嘉良川、九人開地がある。一六六六(康熙五)年に越来から美里間が分離された年に、宇久田が創設されたという(『宇久田誌』)。その宇久田の中に青那志と兼手、伊イ武ン佐ザ久クという屋取があった。一九一七(大正六)年、御殿敷、嘉良川が独立した。昭和戦前期に森根、白川、御殿敷の一部が倉敷などとして独立した行政区となった。沖縄戦後は、米軍基地となり、多くの住民はその周辺に住むようになった。戦後は大工廻郷友会、松泉会を経て、一九九九年三月に、新たな大工廻郷友会を立ち上げ、親睦を図っている。また、諸年中行事が無くなる中、同会は保存会を発足させ「組踊 伏山敵打」を保存継承している。脚注*大工廻郷友会『大工廻誌〜基地に消えた古里〜』(二〇〇九年九月)。三〇、三二、三四、一三二頁*角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典』四七 沖縄県(角川書店 一九八六年七月)。八〇三、一〇五四、一一六二頁*宇久田郷友会『宇久田誌』(二〇一三年)。一五頁

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