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− 104 −第2章 村落概況*東恩納寛惇『南島風土記』(沖縄郷土文化研究会、一九六四年一二月再版)。三六〇頁*沖縄風土記刊行会『沖縄風土記全集』第三巻 コザ市編(沖縄風土記刊行会、一九六八年一月)。一〇五、一〇七、一〇九頁*沖縄市教育委員会『白川屋取集落』(沖縄市文化財調査報告書第七集、一九八五年三月) 三三頁*沖縄市役所「日本人 大字別世帯・人口集計」二〇一四年七月三一日現在*沖縄市役所「行政区別人口統計表」二〇一四年七月三一日*沖縄市教育委員会『沖縄市史』第二巻 文献資料にみる歴史 一九八四年三月。一四一頁③ 宇久田宮里 実雄現況市の西側に位置し、西側で嘉手納町、東側で大工廻、南側で森根に接する。米軍嘉手納飛行場の北側にあたり、県道七四号線の南側に位置する。宇久田原の他、五つの小字がある。沖縄戦後、大半が米軍の嘉手納基地となり、居住者はいない。住民は沖縄市内の他、県内各地で生活をしている。一九〇四(明治三七)年六月、民家のアシャギ(離れ)に越来尋常小学校の仮教場が開設された。一九一四(大正三)年五月、越来校から分離し宇久田尋常小学校が設置。その後、高等科の設置(一九一八年)を経て、一九二五(大正一四)に学校は大工廻に移された。通学区域は、大工廻、宇久田、後に独立した嘉良川であった。一九四五(昭和二〇)年沖縄戦で学校は消滅した。一九八六(昭和六一)年三月、学校跡地の記念碑が建立され、今では宇久田・大工廻集落跡を示す記念碑ともなっている。宇久田村の旧住民は、八重島に拝所を設置し、郷友会の結成、ウマチー等を行い、年中行事の継承、出身者の親睦を行っている。現在、行政区(自治会)としてはない。発祥ウクダと言う。宇久田は旧越来間切に属し、越来村、コザ村、コザ市を経て、現在に至る。北東側に道一つを隔てて接する大工廻と合わせ、ウクダ・ダクザクと併称される。古い門中には美里間切知花から移住したといわれる城門中、中城間切安谷屋からの移住とされる棚原門中がある。根所は河陽家で、二〇戸ほどの屋取集落であったとされる。一六六六(康熙五)年に大工廻から創設されたという説があるが、地元では宇久田村は河陽村が後に改称したとも言われており、はっきりとしない。『中山伝信録』に見える宇慶田は宇久田のことと考えられている。『琉球国由来記』には河陽村と宇久田村の両方が見えるが、同じ項で並列されることはない。また、河陽地頭の職名も見え、福地之殿、ノハナジ殿では、稲二祭の際に大工廻地頭、宇久田地頭等が供物を備え、大工廻ノロが祭祀を行った。大工廻村の大工廻ノロ火神、前之川、大工廻神アシアゲを両地頭が共に祀っている。炭の産地として著名であり、中頭四間切と国頭の各間切に課せられていた炭や鍛冶炭が一六七四(康熙一三)年より宇久田村と大工廻村に課せられている。また、広い農地など好条件が揃っていたため、暮らし向きが比較的良く、大工廻、宇久田の人たちは働き者と言う意味で「火はらたき」と言われ、「勤倹貯蓄を宗とし、労力を厭わず汲々として農事に精励する」と明治期の新聞に書かれる。屋取集落として青那志、伊武佐久、兼手が形成されたが、大正一四(一九一三)年、青那志と兼手は青那志として行政字として独立した(地籍は未分離のまま)。

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