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− 106 −第2章 村落概況⑤ 越来宮里 実雄現況市の中部に位置し、北〜東側で美里、南側で城前、住吉、西側で嘉か間ま良ら、八重島と接する。一〜三丁目に分かれ、国道三二九号で美里と接する。比謝川が北を流れ、市立越来小学校、市立越来中学校、県立美み来らい工科高等学校がある文教地域である。国道三二九号沿いに大型スーパーなどの商店が並ぶが、国道から集落の中に入ると住宅街が広がる。首里王府時代の宿スク道ミチが集落内を通り、越来間切の間切番所があった村、間ま切きり同ドゥ村ムラである。王府時代より、越来間切の政治、経済、文化の中心地であった。尚泰久王に子どもができた記念に植えられたという白椿伝説の川畑家、尚宣威王の墓とされる古墓、越来節の歌碑、飛び安里の伝承が伝わる旧安里家跡、越来グスク跡等がある。越来原の他、六つの小字がある。住居表示の越来全域(一〜三丁目)、城前町全域、住吉一丁目、八重島全域(一〜三丁目)、美里一・二・三・五丁目、嘉間良全域(一〜三丁目)と嘉良川の一部が域内にあたる。発祥グイクと呼ばれる。越来は旧越来間切に属し、越来村、コザ村、コザ市を経て現在に至る。間切名や城名に、隗谷、魏古、五慾などの文字が当てられてきた。『おもろさうし』にもごえくが出てくる。越来グスクは尚泰久、尚宣威王の王子時代の居城であり、古琉球期の要衝の地であった。越来グスクは、元市立越来幼稚園、児童公園、城前公民館一帯にあったとされ、発掘調査の成果は、一四〜一五世紀の中国産青磁白磁が多数出土、金属器使用の一般化を示す砥石、刀の鍔つば、切せっ羽ぱ、鎧よろい金属等も出土した。史・資料に、はへ原村、南風原村と記載されているが、越来城を中心として北の西原(美里)に対し南に位置する村の意という。『琉球国由来記』以降は越来村と記載されるが、村名の変更時期ははっきりとしない。越来城之殿、南原嶽、越来城火神等の拝所があり、越来ノロは越来村の他三村を管掌した。明治時代、越来尋常小学校が設置され、越来村教育の発祥地である。屋取集落に嘉間良、不志久保があった。一九一八(大正七年)に嘉良川が、一九四二(昭和一七)年に嘉間良がそれぞれ独立した。沖縄戦の後、一九五六(昭和三一)年に城前、一九五七(昭和三二)年に八重島、住吉に一部が割かれた。脚注*東恩納寛惇『南島風土記』一九六四年一二月再版。三六〇頁*平凡社『日本歴史地名大系四八巻 沖縄県の地名』二〇〇二年一二月。三四六頁*越来共有会『沖縄市越来字誌』二〇一〇年七月。三八頁*沖縄市教育委員会『沖縄市史』第二巻 文献資料にみる歴史 一九八四年三月。一六頁*沖縄市教育委員会『白川屋取集落』沖縄市文化財調査報告書第七集 一九八五年三月。三三頁*角川書店『角川日本地名大辞典』四七 沖縄県 一九八六年七月。三四九、七九九、八〇〇、八〇一、八〇三、一〇五四、一一六二頁*沖縄市役所「日本人 大字別世帯・人口集計」二〇一四年七月三一日現在*沖縄市役所「行政区別人口統計表」二〇一四年七月三一日*沖縄市教育委員会『沖縄市史』第二巻 文献資料にみる歴史 一九八四年三月。一四一頁

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