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− 107 −第1節 旧集落⑥ 嘉間良廣山 實現況嘉間良は、市の中央部に位置し、東は越来、西はセンター、八重島、南は住吉、北は八重島の各自治会に接する。起伏の多い丘陵部に住宅が密集している。市立嘉間良保育所やコザ聖母幼稚園、センター公園、史跡の尚宣威王の墓や八重島貝塚がある。面積は三〇二〇〇〇平方メートル。二〇一四(平成二六)年三月の人口一五六五人、六五九世帯。発祥嘉間良は方言でカマラと呼んでいる。もとは字越来の一部で、嘉間良屋取と呼ばれていたが、一九四一(昭和一六)年に字嘉間良として分離独立した。八ヤ重シ島マ川ガー原バル、八ヤ重シ島マ原バル、茶チャー城グシク原バル、不フ志シ久ク保ブ原バル、嘉カ間マ良ラ原バルの小字からなる。一九四五(昭和二〇)年に米軍の上陸と同時に宣撫隊本部や避難民収容所が設置された。やがて、近隣の室川・越来・安慶田地区とともにコザキャンプと称された避難民収容所にあてられ、各地から多くの避難民を受け入れた。人口の増加とともに学校・病院・孤児院・村役所・警察署・郵便局などが設置され、ここではいち早く戦後がはじまった。戦後コザ市の発祥の地で、一九四六(昭和二一)年四月に行政区としてコザ区が誕生した。一九八九(平成元)年四月にコザ区の名称は、自治会の議論の中で「本来の嘉間良に戻すべき」との意見があり、区名を元の嘉間良に変更した。一九五〇(昭和二五)年には石灰岩の岩山や畑地帯であった八重島川原が開発され、米軍相手の特飲街が設置されて八重島区として独立した。⑦ 照屋廣山 實現況照屋は、市の南部の国道三三〇号と三二九号の交差するコザ十字路の南側に位置する。東は宮里、大里、西は比謝川を境に安慶田、南は大里、北は城前の各自治会に接する。戦後、十字路一帯に市場が開かれやがて銀天街へと発展していったが、近年は他地域の商店街同様衰退してきている。各商店の二代目の時代になり、国や市の支援を受けながら、食とアートのまち、銀天まつり、銀天大学などいろんな施策やイベントを開催し、活性化に努めている。自治会主催の公民館まつりでは、四年に一回組踊りが上演され、大いに盛り上がっている。市立給食センターや中部徳洲会病院、照屋郵便局等がある。面積は五〇九〇〇〇平方メートル。二〇一四(平成二六)年三月の人口四五九三人、二一七五世帯。発祥照屋は方言でティーラという。後クシ原バル、照テル屋ヤ原バル、前メー原バル、東アガリ原バルの小字からなる。『琉球国由来記』(一七一三年)に照屋村が見られる。古くは、美里間切宮里村の一部であったが、耕地の関係で宮里村の南側に集落が形成されていき分村したといわれている。首里王府正史の『球陽』によると一六七二年に美里間切に属していた照屋村を越来間切に編入したとの記載がある。屋取集落として前メー屋取があった。戦前はわずか五〇戸ほどの小さな村であったが、戦後、基地の街コザのベッド・タウンとして人口が膨れ上がり、急速に発展してきた。宮古や八重山、糸満、奄美大島や本島各地から人々が集まりいろんな商売が行われてきた。外国人相手の飲食店も立ち並び黒人街と称された。復帰前後から

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