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− 108 −第2章 村落概況基地経済からの脱皮が叫ばれるようになり、外人相手の飲食店などは漸次減少し、黒人街は姿を消した。一九五一(昭和二六)年に十字路市場が創設され、本町通り商店街が整備され、沖縄本島中部における屈指の商店街となった。一九七八(昭和五三)年に十字路市場は装いも新たにアーケードの銀天街として誕生し、にぎわいを見せた。⑧ 安慶田廣山 實現況安慶田は市の南部に位置し、東は比謝川で照屋と境をなし、西は室川、胡屋、南は高原、北は住吉の各自治会に接する。戦後、嘉間良を中心に避難民収容所ができると、各地からの避難民が収容された。その後、かつての田園地帯も移住者が増え、住宅地となった。祖国復帰前後まで安慶田大通り(国道三三〇号)は家具店や車の修理工場、鉄工所、材木店などが立ち並ぶ生産業地域であった。現在、戦後の急速な市街化によって形成された狭隘道路や密集市街地の解消のために安慶田地区土地区画整理事業が進められている。自治会内には市立の安慶田幼稚園・小学校・中学校・保育所・児童館、市営住宅やくすぬち平和文化会館、産婦人科病院などがある。面積は五九九〇〇〇平方メートル。二〇一四(平成二六)年三月の人口四九三九人、二一八七世帯。発祥安慶田は方言でアギダという。西イリ原バル、後クシ原バル、安ア慶ゲ田ダ原バル、前メー原バル、東アガリ原バル、照テル知チ原バル、犬インノヌ目ミ原バルの小字からなる。『中山伝信録』(一七二一年)や『琉球国旧記』(一七三一年)にも越来間切の一村として記されている。首里王府正史の『球陽』の一七六三年の記録には、旧集落地は風雨の被害が多く、日用水の確保にも湧泉が遠く、また居住地も狭かった。土地が広く、湧泉も多く、風雨の憂いも少ない竹口原(現安慶田原)への集落移動を願い出たので許可したという。伝承では、越来グスク東南方の傾斜地に集落があったといわれているが、古島の位置は明らかでない。屋取集落として室川・前屋取があった。戦前は、東南部の丘陵は畑地で、北部は水田が広がり、東部は草原で放牧地(王府時代にはここで育てられた駿馬「クイト」は有名で、王様に献上されたといわれている)となっていたが、戦後は嘉間良を中心に室川・越来・安慶田地区は避難民収容所(キャンプ・コザ)となり、二万人の避難民であふれていた。安慶田には宜野湾や北谷出身者が多くいた。また、犬ノ目原に海外引揚者の収容所としてインヌミ収容所(キャンプ・キャストロ)が設置された。各地からの移住者が増えるにつれ、田地は住宅街に変貌していった。一九四九(昭和二四)年安慶田の一部(前(メー)屋取)が分離独立して室川区の一部を構成した。⑨ 胡屋廣山 實現況胡屋は、市の南部に位置し、東は室川、安慶田、高原、比屋根、西は園田、中の町、北はセンターの各自治会、南は北中城村に接する。戦後、字仲宗根も行政区に含んでいる。国道三三〇号と県道二〇号線(市東部地域の高原からくすのき通り、ゲート通りを通って嘉手納第二ゲートまで伸びる)が交わるところが胡屋十字路で戦前から「グヤカジマヤー」と呼ばれ親しまれ栄えてきた。自治会内には県内唯一の動物園「沖縄こどもの国」

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