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− 109 −第1節 旧集落があり、市内外から多くの観光客が来園する。市立諸見幼稚園・小学校、コザ中学校、胡屋あけぼの保育所、子育て支援センターがある。また、沖縄郵便局、沖縄税関支署、コザ年金事務所、沖縄中央学園などの専門学校、新聞社の支社、胡屋高層住宅、ショッピングセンター、病院、ホテルなどがあり、本市の行政、経済の中心地となっている。戦後基地の門前町として栄えたコザのまちの治安を守った沖縄警察署は、その狭隘さ等のため山里の地へ移転した。一九七〇(昭和四五)年一二月、国道三三〇号山里交差点から胡屋十字路で起こったコザ暴動(反米騒動)は有名である。行事として、旧暦の七月一七日に獅子舞、八月一〇日にウスデーク、旧盆には青年会のエイサーが演じられる。面積は一〇九一〇〇〇平方メートル。二〇一四(平成二六)年三月の人口七三六九人、三一五一世帯。発祥胡屋は、方言でグヤと呼ばれている。一三の小字からなる。また、仲宗根とはグヤ・ナカゾネと併称され、戦後は行政区も一つとなった。戦前から合同で獅子舞、ウスデークが行われている。『絵図郷村帳』(一六四九年)に「ごや・中そね」として併記されている。『琉球国高究帳』(一七世紀中葉)に「ご屋」と見える。『琉球国由来記』(一七一三年)には「胡屋」、『中山伝信録』(一七二一年)や『大島筆記』(一七六二年)に「湖屋」の字が見られる。胡屋集落の発祥は胡屋の御嶽の東森(アガリムイ)の東側の麓、冨里井(フサトゥガー)のある地域(冨里川原)といわれている。ここから胡屋原(胡屋十字路付近)に計画的に移動し、碁盤目型集落を形成したという。屋取集落としては唐カラ田タノヌイー上とソンダ、犬インノヌ目ミがあった。戦後間もなく、集落内に米軍の野戦病院が設置されが、一九四六(昭和二一)年に民間に移管され沖縄中央病院となり、沖縄の戦後医療に大きな役割を果たした。一九五一(昭和二六)年にコザ病院と改名されセンター区の一角に移設され、病院跡地は返還され再び住宅地となった。行政区として大ウフ袋ブクロ原バルの一部と佐ソ運ン田ダ原バル、漢カン寿ジュ屋ーヤ原バルが園田区、一イチ里リ根ネ原バル、八ヤ重シ島マ原バルがセンター区として独立した。⑩ 仲宗根廣山 實現況仲宗根は、戦前まで市の南部の石灰岩台地に位置した集落で現在は胡屋自治会に属する。東は安慶田、西から南は胡屋、北は嘉間良の各字に接する。台地の東側は断層崖があり、ムルカーバンタと称され、市指定文化財室川貝塚と室川井がある。戦後この一帯は米軍用地(マリンキャンプ)として摂取されたが、一九六二(昭和三七)年七月に開放され、一九六五(昭和四〇)年に区画整理が完了し住宅街となった。一九六九(昭和四四)年にコザ市役所庁舎がこの地に移転した。一九九三(平成五)年に現在の市役所庁舎が落成した。仲宗根共有会集会所や中頭教育会館、沖縄市軍用土地等地主会、情報経理専門学校、料理学校、病院、新聞社の支社等がある。胡屋とともに「グヤ・ナカズニ」と併称され、両共有会で毎年獅子舞の道ジュネーやウスデークが毎年開催されている。発祥仲宗根は方言でナカズニという。馬ンマ上イー原バル、照テル屋ヤ又マタ原バル、室ムロ川カー原バル、加カ真マ良ラ原バルの小字からなる。王府時代は地頭代の所領で、地頭代は仲宗根姓を名乗っていた。『絵図郷村帳』(一六四九年)に「中ぞね」とある。また、『琉球国高究帳』(一七世紀中葉)には「中そね」と「ご屋」が併記されている。『琉球国由来記』(一七一三年)以降の資料には「仲宗根」と出てくる。室川屋取を有していた。集落内の平坦地にはグヤウマナー(胡屋馬場)があ

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